人情が敗北する時――三月大歌舞伎『熊谷陣屋』感想

一言感想:主従の掟に敗北した男の透明な絶望が涙腺にくる名舞台

 松嶋屋、とりもなおさず、片岡仁左衛門丈のお芝居をちょくちょく見るようになり、約5年が経とうとしている。

 歌舞伎を見始めたきっかけは孝夫さん狂いの友人の手引きだった。元々日本の古典(あまりこの表現は好きではないのだけれど)は素人なりに読むこともあり、彼女は古い録画やシネマ歌舞伎などを少しづつ紹介してくれるようになった。初めて生のお芝居を観たのは2016年7月松竹座の源氏店(当時は関西に住んでいた)だった。衝撃だった。隅々まで統制されているのにその統制を感じさせない所作、いきいきと鮮やかな感情を伝えてくる型は、見ていて本当に心地よかった。

 そこから見事に歌舞伎(というか、孝夫さん)の魅力に取りつかれ、世話物から時代物、丸本物から南北のようなエンタメ、近現代のお芝居、踊り、と、学生の小遣いのゆるす限り、さまざまに見た。東京に転勤した今となっては、日常的に古典に触れる事も少なくなった生活の中で、私を支えてくれる大切な趣味の一つとなっている。

 今回の『熊谷陣屋』についても、その友人に是非見に行けとしきりに勧められた。もともと私は子別れの物語をなんとなく敬遠していた節があり(実はあまり『新口村』が得意ではなかったりする)、正直絶対に見てやるぞとまで思い決めていた訳ではなく、まあ松嶋屋親子のお芝居であれば万に一つも間違いはないだろう、とふんでチケットを押さえた。今思えば本当にもったいない。図書館での下調べくらいしておけばもっと楽しめただろうに。

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 まず孝太郎さんの相模。息子小次郎をめぐる冒頭の熊谷とのやり取り、武士の妻としてしかるべき応答をしつつも、子を思う母の情を自然ににじませる演技が既に素晴らしかった。観客をお芝居のトーン(武士とは如何にあるべきかという義理をあくまで立てつつも人の情を捨てられない、全体に所作が洗練され抑制が効いているからこそ感情の高ぶりが映える)に巻き込み、その後一瞬たりともそのトーンが崩れないのは、孝太郎さんの相模に依るところも大きかったと思う。中盤特に、義経の高札「一枝を切らば一指を切る」の指し示すところが、舞台上でも観客にももう明らかになったところに入る相模の慟哭は、あくまで洗練された所作と型どおりの台詞の中に、純度の高い悲しみが、心底からの慨嘆が、どうして我が子が死なねばならなかったのかと、どこにも問えない嘆きが(その理由は相模自身が良くわかっている)にじんでいた。孝太郎さん自身が、理にうとくえ心強からぬ、だからこそあわれを誘う女よりも、賢い武士の妻のような、義理を弁えねばならない抑圧の中に生きる女性がすごく合っている役者さんでもあるのだろう。いつか必ず孝太郎さんの政岡が見たい。

  勿論の事、孝夫さんの熊谷は素晴らしかった。熊谷は、すぐれた武士である。相模よりもっと抑制された人物像だ。徳高く、真っ直ぐさと高潔さを以て、そしてあくまでも主従の掟に身を捧げて生きる、近世の価値観の中では最も美しい人。それが武士だ。彼らには常に抑圧が働いている。おそらくそれは、主従の秩序の中では、必ず最善を求めねばならないという抑圧だ。より御主にとって良い選択肢があるのなら、必ずその選択肢を選ばねばならない、それがたぶん、彼らの「義理」だ。

 だからこそ、作劇上、しばしば彼らの「人情」は「義理」の前に敗北する羽目になる。主家のおんために、よりよい選択肢がそこにあるのなら、彼らは子と別れ妻を殺し、時には自ら死を選ぶ。その胸糞悪い展開は、一つのカタルシスとして成立しうる。なぜなら彼らの子を思い妻を思う心は、主従の掟という、近世文学の中では文字通り絶対的な掟の前に捻じ曲げられる事で(そして勿論、良く表現される事で)より哀切に、より純粋に響くからだ。

 世に隠れもなき立派な武士熊谷直実が世をはかなみ、僧というややもすれば賤しいとみなされる身にまでなり果てるあわれさ。その理由は、『熊谷陣屋』の中では、主従の掟の前に自らの子まで犠牲にする武士の道に絶望したからだ。熊谷は主君義経の命に従い――院の子つまりは至高の胤、敦盛の命をお救い申し上げ――その身代わりに小次郎を殺し、そして武士としての自分をもはや保てなくなってしまった。これはある意味、武士としては切腹よりも尚悪い結末と言えると思う。主従の掟にそむいた結果切腹をするのであればあくまで武士として死を選んだ事になるが、自らの子を差し出し御主の命を達成するという、主従の掟の上で何ら恥じる事のない忠義を成したにも関わらず出家するのは、理屈が明らかに通らない。更に、彼は平家討滅という源家として最も誉れ高い戦線から離脱しようというのである。熊谷の行動は、即ち熊谷の直接の御主である義経への背信にすら通じ得る。

 しかし義経は熊谷の出家をゆるす。彼は仁の心を兼ね備えた主君なのだ。義経が主従の掟に負けた部下を赦す事の、なんと情け深く、容赦のないことだろう。現代の観客からすれば義経の行動からは支配者層のノブレス・オブリージュが覗き、どことなく傲慢さすら漂う。彼は彼で、彼の立場で課された主従の掟に縛られて生きている。主従とは、そのような断絶を本質的に孕む関係でもある、かもしれない。

 そして花道、引っ込みである。熊谷は、舞台当初の煌びやかな衣装とは打って変わって僧形で、念仏僧のみすぼらしい恰好だ。既に人形ぶりの美しい所作はない。そこにいるのは團十郎型の熊谷、やりきれない感情を抱える、かつて荒武者だった一人の父親の姿だ。「十六年はひと昔、夢であったなあ」の台詞に加えて涙を誘うのは、戦の鐘に耳を塞ぎ、首を振るしぐさ。彼はもはや戦を誉れあるものと思う事ができない。アイデンティティの喪失、と表現するには深刻すぎる敗北がそこにはある。彼はやはり敗残者だ、という思いが強くなる。お芝居の全てがこの引っ込みの為にあるのか、と一瞬思ってしまうくらい、あの花道の孝夫さんの吸引力は凄まじかった。花道をすっきりと歩き行くのではなく、笠を押さえて蹲るように走り抜ける所作は、もはや修羅の道を顔を上げて歩く事もできず、仏の道に心を澄ます事も未だできない熊谷自身の迷いの深さが、そのまま表れているのだろうと思う。

 今回の『熊谷陣屋』は、よい役者とよい演出がそろったお芝居だった。本当にひどい話ではあるけれど、松嶋屋のお芝居を楽しんだな、と思う。歌舞伎は少々とっつきにくい趣味なのかもしれないけれど、年数によって練り上げられた生の芸術の楽しさは何者にも代えがたいものになり得る。こんな舞台をもっと見たいと思うからこそ、私はなかなか、歌舞伎座通いを止められないのだと思う。